それは願いなのかもしれなかったけれど
もしそうであったならと、思ってしまうんだ
049:答えてくれなくていい、ただ離れないで傍にいて
しんしんと雪が降る。全ての事柄が集束し、葛が組織の末端から抹消されてから時が経った。処分していない実家もある極東へ帰国することも考えたが、葛は写真館をたたむと新たに家屋を購入して大陸へ残った。あの時、と葛はいつも思う。使用回数に制限のある葛の能力で葵を結果的に見捨てることになった。最後まで飛行機に残りあってはならないものを大気圏外まで弾き飛ばすという荒技のために葵は退かなかった。葛はともに残り、葵のそれが終わったら同時に能力で脱出を測ろうとしたが葵はそれを拒否した。笑顔で大丈夫だからと笑うあの顔は時折夢枕に立っては葛の気をくじかせる。
大陸は雨も雪も盛んに降る。乾くときはこれでもかと思うほど乾く。極東のように四季折々とはいかない。それでも葛は極東で過ごした年月よりも短いこの大陸に残ることを選んだ。飛行機の残骸の中、肉の焼ける匂いはしなかった。葵は生きているかもしれない。葛の前に現れないから死んだとは葛も考えていない。もともと葵と葛の関係は組織の上層部が作りあげた虚構だ。写真館をたたんだのも、取り繕う必要がなくなったからだ。葛は葛を知らない地域へ引っ越した。それでも時折思い出したように港湾部へ顔を出してしまう。葵は船出したわけではないし行方不明になったのも海と船の関係ない場所であるのに、何でもそろう港湾部の群衆に葛は葵を見てしまう。元来、葵はにぎやかな性質であったから良く顔も出していたようである。そこの角からひょこりと葵が顔を出すような気がして葛は港湾部をうろついた。日が暮れるまで、雨滴でズボンの裾が濡れるまで、雪が降れば傘が重くなるまで。馬鹿馬鹿しいことをしている自覚はある。行方不明の葵の方が葛を避けている可能性だって無きにしも非ずである。それを探し出してどうしようというのか。そもそも葛自身が探し出した葵をどうしたいのかが曖昧だ。
「…無為だな」
靴が踏んだ雪がきゅうと音を立てた。傘はずっしりと重くなって葛は傘を下ろすと軽くふるった。積もった雪が落ちてそこだけこんもりと嵩が増す。葛は踵を返すと帰路についた。
雪で薄く化粧された傘を傘立てに突っ込み外套を脱ぐ。暖房器具のスイッチを入れて回り、換気の確認をする。その足で葛は一段高く作った床にあがる。大陸へとどまると極めはしたが名残があるのか仏間のような畳敷きを特別誂えした。大陸式の仏壇はどうにも性に合わない。畳の上をいざって近寄ると葛は燐寸で蝋燭に火をつける。隠し抽斗から取り出した線香に火を付け、手首の返しで起こす風で消す。白い煙が一筋だけふわりと昇り、樟脳のような鼻につんとくる香りがした。線香を供える。黒く口を開けた暗渠の中には位牌が一つあるだけだ。けじめの心算で葵の位牌をつくってもらった。葵の字を入れた戒名は仰々しくなり、本人が見たら悪趣味だと言われそうだなと苦笑した。手を合わせてしばらく祈る。時間は少し長かった。スチームがしゅんしゅんと立てる音に葛の目蓋がすうっと開く。長い睫毛が連続した絵画のように瞬く。静謐に保たれたその場に葛の容姿は上手く嵌まっていた。濡れ羽色の髪を上げて賢しらな白額をあらわにして黛は化粧したようにくっきりとしている。化粧筆で刷いたように密で黒く長い睫毛は手も加えていないのに的確な角度で色香を醸す。その白皙の美貌は鼻梁や頬骨、目蓋と言ったごく薄くなる個所ではその奥のものが透けて見えそうだ。具合が悪くなるとその程度がひどくなり、目蓋に血管が透けて見えたのを見た葵が仰天していた。今となってはそんな煩わしささえ懐かしい。
葛は最後に鈴を鳴らしてから立ち上がると上着を脱いで食卓の準備に取り掛かる。タイを弛めて上着と一緒にハンガーへかける。真っ白で糊のきいたシャツの袖をまくりながら貯蔵庫へ足を運ぶ。貯蔵庫には葵の好むものまでそろえてある。習慣とは恐ろしいもので購入のリストに要らぬものまで加えてしまう。それでも葛は自分の食膳より葵の好物を一品加えた膳を仏壇へ供える習慣で何とか己を保っていた。葵に死んでほしくない想いはある。だが飛行機の残骸を見たときに真っ先に想像したのは葵の死だった。だからけじめの心算で位牌も造ったし膳も供え線香もあげる。それでも、と思う。眠る前に明日葵が訪ねてはこないだろうかと思い、目が覚めると夢枕の葵の笑顔に気はくじける。一人の食事は味気ない。それでも軍属であった経験から生活習慣に乱れは生じなかった。
相手に死なれるのって、辛いよな。何かの折に葵が言った言葉を思い出す。それ自体が己の弱さ恥じるべきだ唾棄すべきだと思いながら、それが判っていて葵はどうして俺を一人にしたのだろうと恨み事を言いたくなる。組織の上層部の判断での同居に間違いはなかった。事前の顔合わせさえなく、自己紹介は一仕事終えたあとと言う過酷さだった。初めのころは諍いも良く起こした。葵と葛では性質が違うのだ。それでも補完し合うように二人は写真館を営み世間と折り合いをつけ、裏稼業もこなした。
葛の箸が止まる。葛ってホント綺麗な箸の使い方するよなぁ。葵の声が聞こえる。目を上げてもそこには誰もいない。
弱さだ。
ぎりっと唇を噛みしめる。俺は一人でも大丈夫なはずなのに。どうしてあの時葵とともにいかなかったのか。葵ととも、に。真鍮の箸に握る手の熱が移るほど時間が経った。きゅっと雪を踏む音がしてはっと顔を上げる。庭の方だ。庭に通じる部屋は日本式にあつらえてもらった。濡れ縁が備えられて喬木と灌木で目隠しを兼ねた。伊波葛と表札をかけた。そんなことをするのは自分が大陸者ではないと言っているようなものだが何故か葛は葵が帰って来たときに、と矛盾したことをしている。葵はもう死んだんだ。そう思いながら膳を供え線香を上げそれなのに葵の分の部屋もある。物置にはしていないが必要最低限の家具しかない。葵が帰ってきたら。
カエッテナンカコナイヨ
「うるさい!」
鋭く叫んで葛の脚が止まった。雪を踏む音は猫か何かだ、きっとそうだと。震える手が庭を見れる硝子戸を引き開けた。葛の玉のような漆黒が集束して見開かれていく。
肉桂色の短髪と明朗闊達な性質を示すような笑顔。うっすらと肩や頭に雪が積もって、現地の人間が着るような衣服をまとっている。葛の姿を認めたそれはニィっといたずらっぽく笑って敬礼した。
「死に損ないました。葛ちゃん、元気?」
どさっと葛はその場へへたり込んだ。恐怖ではなかった。憤怒でもなかった。歓喜だった。それでも内側と外側が連動しないのが葛である。力が抜けるという発露は葛の性質では精一杯の表現だった。
「え、ちょ、ちょっと大丈夫?! オレが帰ってきたことそんなショック?! それでショック死とかしないでよ!! せっかく帰って来たのにオレ一人になっちゃう!」
心配してかけているのだろう言葉なのにどこか遊びやふざけが混じってしまうところまで葛が知っている葵だった。葵が慌てて開けた窓枠を踏み越えてくる。同時にいくらかの雪がぼたぼたと塊で散らかった。現地風の恰好であるから雪離れの好い格好だ。長衣のような商人のような格好である。葵は葛の元へしゃがみこむと優しく言った。
「知ってるよ。葛ちゃんがずっとオレのこと待っていてくれたこと。『伊波葛』って名前を捨てて日本に帰らなかったこと。線香上げてくれてたでしょう。町で少し訊いてきたから知ってるよ。一人暮らしなのに二人分の食料を調達する日本人がいるって。線香を定期的に購入してくれる客がいるって。この辺りは静かだから鈴の音も良く聞こえるんだよね。夜中に金物の音がしてうるさいって怒ってた小母さんはオレが言いくるめておいたからもう大丈夫」
一定の収入のある層が集まる界隈である。人の出入りは激しくなく、そうした固定情報も広まりやすかった。これが港湾部などその日暮らしや如何わしい露店が連なる場所になると情報の精度ががくんと下がる。
「あおい、なのか」
葛が触れると肩の雪が融けた。葵は猫のように身震いして雪を払い落してからにゃあと笑う。
「三好葵です! 以後よろしく! ご飯期待してます!」
葛は歯を食いしばって顔を俯けた。泣いてしまいそうだった。連動しない外殻と内側は胡乱なだけではない。制御を振り切って暴走することも含んだ。鼻の奥はびりびりと痺れたように痛み目の奥がじんと熱くなる。歯を食いしばるっているせいもあってか、葛は泣き出しそうな顔を葵から背けた。泣き顔を見られたくなかった。一線を越えたらすがりついてしまう。葛の体は葵の登場に対して最上の喜びに泣いていた。
葵がふわりと笑んだ。調えられた葛の黒髪を梳くように頭を撫でる。そのままぎゅうと抱きよせる。
「葛ちゃん、お耳が真っ赤ですよー。白皙の美貌も善し悪しだね。耳と鼻が紅いから泣きそうなの堪えてるの判っちゃうんだよね、これが。葛ちゃん」
限界だった。
「泣いていいよ」
葛の指がきつく葵の背に爪を立てる。葵の胸に顔を伏せて葛は肩さえも揺らさず声もあげずに慟哭した。葛の白い頬を幾筋も伝う涙を葵の胸が受け止める。服が汚れるのも構わず葵は抱擁した。
ひゅうひゅうと喉を鳴らして泣く葛の体の、今まで鎧っていた何物かを葵の体温が融かしていく。葛は世間と折り合いをつける際に馴染むより肩肘を張る性質だ。堪えも多い。その緩衝材が葵であった。それ以上に。
葛は葵を好いていた。
ひとしきり泣いたあと、葛がそっと葵から離れようと胸を押す。葵はそれを無視して抱き締め続ける。
「しばらくこうしてようよ。だって久しぶりなんだよ? ずっと、ずっと葛とこうしたかったんだ。もう離さないよ」
葛は自然と葵に身を任せた。今までどうしていたとかあれからどうなったんだとか訊きたかったことが雪が融けるように霧散していく。葵が帰ってきてくれた。これが応えであってそれ以上必要なことなど何もなかった。
短くてバサバサに切られた肉桂色の髪や、筆で刷いたように一筋長い睫毛や、肉桂色の双眸や。頑固な性質を示すようにしっかりとした眉筋と細い頤。首へなだらかに続くそれらを葛は手でたどりながら泣いた。
「消えてしまわないのか」
「消えてほしいの?!」
がーん! と葵が道化て見せる。葛がごしごしと目を擦る。白い目元が紅をさしたように赤らんだ。漆黒は涙で豊潤に煌めきますます玉眼じみて煌めいた。ずず、と洟をすすると葵がケタケタ笑う。
「葛に鼻水出させたのってオレが初めてじゃない? あはは、そんな嬉しかった? オレも嬉しかったよん」
涙に濡れた白い頬へ葵がペッたりと頬を寄せる。傷一つない肌理の細かい皮膚が触れ合った。
「オレが今までどうだったか、訊かないんだね」
「訊いてほしいなら訊く」
「やだよ。オレは過去は振り返らないんだ。その代わり未来に期待する。葛ちゃん、ここにおいてよ。またオレ達、二人で暮らそう?」
葛は黙ったままだ。葵は断られるなんて思いもしない期待の顔で待っている。
「ずっとそばにいる。今までいられなかった分まで、お前の傍にいる」
情けないと思いながら葛は新たな涙があふれるのを止められなかった。端正に整った顔立ちをくしゃりと歪めて泣きじゃくるのを葵は愛しむように眺めている。噛みしめる唇は血のように紅く、花魁のように蠱惑的だ。葛の白皙の美貌は色づく部分は鮮やかに引きたてる。眦や唇などほんのり紅く色づいた様が葵は好きだ。
「だめかな。それとも、もうそういう相手見つけちゃったかな? オレってば出遅れた?」
ふるふる、と葛が首を振る。葛は抱きつく勢いで葵を押し倒した。
「俺はお前を――待って、いた! 待ってたんだ…ッ!」
組織はまとめ役の破壊に始まって壊滅していた。葵と葛を繋ぐものはもうない。それでも葛は葵を待っていた。葛自身がようやくそうと気づいた。俺は葵が帰ってきてくれるのを待っていたんだ。
「それにしても面白い家だな、和洋折衷って言うか。線香臭いってことは仏壇があるんだろう。写真館にも行ったけどもう引き払った後だったからさ」
葵の軽口に葛は微笑む。これこそが俺の安らぐ時間なのだと。
「なぁ、なんで『伊波葛』って表札にしたんだ? オレも時間があったからちょっと調べたんだけどお前、キシダタクマっていうんじゃなかった? それともこれってガセ?」
「お前の本名も知りたいものだが」
「ソウイチロウだよ。苗字はご勘弁。ご落胤の宿命って奴でね」
にっと葵が笑う。葛がくすりと笑い返した。
「お前に与えた情報が『伊波葛』であったからその名を使っていただけだ。本名を掲げろというならそうする」
「しなくていいや。オレが知りあったのは『伊波葛』だし。葛ちゃんの方が呼び慣れてるしね」
「俺も葵の方が呼び慣れている」
葵は不意にコツンと葛と額をあわせた。熱が浸透してくる。
「会えてよかった。これからも、よろしく」
熱い滴があふれて葛の頬を濡らした。
《了》